2019年9月2日月曜日

MY和竿を巡る渓流釣りの記憶(その6.ついでの竿と釣具)




「LIBERTY CLUB 万能小継 11本繋 5.3m」渓流・清流・沼・池・河口・防波堤などのあらゆる釣りに使える、とメー
カーは謳っているが、あらゆる釣り人向きの゛お気楽カーボン・ロッド゛だ。もっぱらご近所多摩川でのオイカワ・
ウグイ・アユ釣りに携行。仕掛けや用具も、ちいさなポシェット一つに収め、肩掛けで持ち歩く゛お気楽釣り゛だ。



このブログの「2017中津川渓流釣り・惨敗記(その2)」(2017.9.15)にも載せたが、NISSINのグラスロッドとともに、

一度ダイワ製のこの竿をボッキリ折っている。手元2番をメーカーに交換してもらい、今は何事もなく使い続けている

が、カーボンロッドとは言え当たり所が悪いとすぐに折れてしまうのを体感した。多摩川での仕掛けは、小さな毛鉤

を数個付けた上部に目印の三角ウキを糸通ししたもので、上流から下流に向かい扇状に流していく釣り方だ。いわゆ

る゛流し釣り゛だが、毛鉤にアタックしてくる魚のあたりが、ダイレクトに伝わってくるのがなかなか面白い。常に

ラインを一直線に張った状態なので、魚信と掛かった時の魚の動きを楽しめるのだ。6月から8月一杯の産卵期には、

数釣りもできるので、春・夏のオイカワ釣りをまだまだ続けられそうだ。




「セイコーミニ カーボンロッド 3.9m 13本繋 120g」。軽くて堅調子の渓流竿は、小渓流や山岳渓流で活躍した。
釣りを再開した後も、大雨後で本流の濁りがまだ取れない折には、支流でこの竿の出番となる。ブッシュが邪魔に
なる時は、゛ちょうちん釣り゛もOK。布製仕掛け入れは、40年以上前につるや釣具店で入手したもの。傷み一つ
なくいまだに現役なのには感心しきり。




私の渓流釣り支度、胸と背中部はメッシュのベスト、前・後ろに計5ポケット付き。ウェイダーは、゛バカ長゛と呼ば
れる長靴だが、足底フェルト装着、膝上はコーティング・ナイロン製なので、意外と軽い。


以前使っていたハーディ社のフィッシング・ベストは、しっかりとした綿生地作りだったので、重いし夏場は暑くて

汗びっしょりだった。それに懲りていろいろ探した結果、軽くてメッシュ仕立てのカメラマン用ベストを選んだ。

やや生地が薄いかなと思ったが、何度も使ってみても全く大丈夫、洗濯も楽だし。ポケットはファスナーや両面テー

プでしっかり止められるので、滑り落ちの心配はない。ネット通販で見つけた(ウェーダーも)。以前使っていたウ

ェーダーは塩ビ製で重いし蒸れるし、誠に勝手が悪かったが、最近の釣り用具はとても良く出来ているので、時代

の進歩を感じさせられることが多い(ちと、大げさ!?)。



さて、「MY和竿を巡る渓流釣りの記憶」と題して、私の釣り用品゛棚卸し゛をあれこれしてきたが、やはり手元に

残っているものは選びすぐられた名品(珍品・良品?)のように思う。選んで使う尺度は人それぞれと思うが、その竿

や釣り具を手に取ってみると、あの時の渓流の澄んだ流水や川音の響き、川面を吹き渡ってくる涼風や木々の枝葉

のイメージが蘇ってくるのだ。もうしばらく、水辺に身を置いて魚たちとのやりとりを楽しんでみたい。ここに載

せたどの竿を持って出かけるのか?  短い秋シーズンの渓流が私を待っている。


<この項終わり>



MY和竿を巡る渓流釣りの記憶(その5.他の竿と釣具)




「南洲へら竿 3米 4本次 節巻」この竿は購入後一度使っただけで、新品同様だ。


「南洲」の銘は丸ゴチ風書体で枠無し、竿ふた2個にも銘がある。



ヘラブナ釣りに関しては、複数以上の針仕掛けにマッシュなどの餌を巻き、寄せ餌を撒いてじっと当たりを待つ、

というようなスタイルが自分には馴染めなかった。やはり、渓流の渕やザラ瀬を巡って川筋をつり上がっていく、

という足で稼ぐスタイルが好みで、食い気のある魚を狙ってポイントを探って行く釣りが専らだった。それゆえ、

手に入れた「南洲」のへら竿は、ほとんども使わずじまいだった。私の不確かな記憶では、相模湖でボート釣り

を一度したかもしれない。渓流釣りのシーズンオフにヘラブナ釣りを目論んだのだが、やはり気持ちが向かなか

ったのだろう。「南洲」についても、ネットオークションに中古品が出品されている以外手掛かりがなく、制作者

和竿の詳細は判らないでいる。



前述の、竹林の凡人による「私の和竿・和釣具あれこれ」の一説ではないが、私自身も私の竿と釣具の゛棚卸し゛

をしてみようと思い、以下現在使用中のものと使わず仕舞いのものを併せてここに載せてみる。




「つるや◯作 毛鉤硅竹 三.三」と手元2番に記されているが、実際は3.1m・11本繋・120gだ。仕舞い勝手が良く、
(全長35㎝に収まる)和竿ともに渓流釣りに携行した(右)。毛鉤作りキット(左下)には、羽根や糸・針などの巻き
材料と、タイイング用のバイス(組み立てて箱隅に固定する)やハサミ類・接着剤などがコンパクトに収められて
いる。自身で巻いた毛鉤を収めたアルミケースは、胸ポケットに入れて持って行った(左上)。



和竿での餌釣りに成果が出ないときに、毛鉤硅竹に替えて使ってみたり、逆に毛鉤硅竹のフライに山女魚や岩魚が

反応するものの、尻尾で叩かれたり、追っては来るものの食いが悪かったときには、和竿の餌釣りに替えて釣り上

げたり。渓流釣りにのめり込んで、何でも試してみたかった時期は色々な竿と仕掛けを用意して行った。しかし、

次第に和竿の餌釣りは餌釣り、テンカラの毛鉤釣りは毛鉤釣り、とひとつに絞るようになり、時折気まぐれに使っ

はみるもののこの竿の出番は減って行った。開高健の「フィッシュ・オン」(写真=秋元啓一 新潮文庫)を引っ張

り出してページを括っていたら、西ドイツ・バイエルンの小川で鱒釣りにこの毛鉤硅竹を使うシーンが出て来た。

生憎毛鉤を前取材地のボンに忘れてきたため、イクラを使った゛土ン百姓釣り゛だったが、目の覚めるようにき

れいなブラウンが釣れた。開高健も海外釣行に持って行った竿ということで、何か親近感が湧いてきた。仕舞い勝

手の良いこの竿は、まだまだ十分に使えるロッドなので、渓流釣りのシーンにまた登場してもらおうか。






「喜楽 ルアー用パックロッド 5本繋 1.5m 」布ケースと頑丈なアルミケース付き(右)。
「ABU Cardinal 33」は皮ケース入り(左下)、ルアー各種(左上)。



ルアー釣りに関しては、あまり多くのことを語れないでいる。毛鉤硅竹のテンカ釣りと同様に、和竿を使う合間に

時々引っ張り出して使っただけだったので、擬餌針の持ち手も少ないし、中小岩魚を釣った位の記憶しかない。

しかし、素早く組み立ててすぐ使える勝手の良さは、なかなかの優れものだと思う。装着したリールは、はじめ

「ミッチェル300」(フランス製)で、日本のアングラー黎明期に人気があったもの。千駄ヶ谷の釣彦で入手したが、

リール内部に組み込まれた鉛(回転の速度を良くする、と謳われていた)により、回転ブレが起きるのにはどうも具合

が悪かった。「ABU Cardinal33」を使い始めたら、リールの回転の滑らかさと使い良さにおおいに感心した。以後、

ミッチェルは道具箱に仕舞いこまれ(何度かの引っ越しの内に行方不明に!)、専らカーディナル33がロッドとのコン

ビを組んだ。




「フェンウィック FS50 5'  13/4oz」2本繋 1.5m 60g、細身のロッドだが振り込み時のバネといい魚をかけた時の
しなり(粘り)といい、最近再び使ってみてもなかなか手になじんでいて好ましかった。竿袋(茶色のナイロン生地製)は
へたって破れたので、自家製で作った(丈夫なポリエステル生地)。リールはカーディナル33。


<この項つづく>





2019年8月31日土曜日

MY和竿を巡る渓流釣りの記憶(その4.江戸和竿の昨今)




「竿かづ山女魚竿 3.9m 6本繋 160g」替え穂付き、鉛製の石突は釣行時に取れてしまったまま。竿袋に縫い付けられた
ラベルには、<(㈱)日東釣竿製作所>と書かれている。本流に注ぐ支流や、山岳の小渓流での使用が多かった。



「竿かづ」の角銘はやや角丸、石に打ち当てた時のひびがまだ残っている。



山岳の小渓流で使っていたこの竿の手元(一番太い部分)を、ある時私は岸辺の小石に蹴つまづいてバッタリ倒れ、その

拍子に手を着いた場所にあった石に打ちつけてヒビを入れてしまった。千曲川支流の依田川は、高原地帯をゆるゆる

と流れる川で、放流された山女魚が沢山生息していた。次から次へと掛かってくる小山女魚とチビ山女魚にやや閉口

していたのと、夜の睡眠もそこそこに朝早起きして出て来たせいか、足元がおぼつかなかったのだ。3~4裂して今に

もバラバラになりそうな竿をしっかりひもで止めて帰宅したはいいが、買い替えるよりは自分で修理してみようと思っ

た。例のつるや釣具店に相談し、修理用に巻く絹糸と漆、塗り道具一式を入手した。7㎜幅を4ヶ所、50㎜幅を2ヶ所

しっかりと巻いて糸端を接着剤で止め、漆を塗っては乾かしを数回繰り返した。そのおかげでひびはしっかりと治っ

たが、倒れた時にとれた鉛の石突と竿ふた(2ケ)を紛失し、竿ふたは半完成竿キットの竹を切って自分で作ることと

なった。その後は、小繋ぎのグラスファイバー・ロッドを携行することが多くなり(伸び縮みが楽)、この竿は押し入

れに仕舞ったままとなった。



私愛用の「俊行作」と「竿かづ」のことを調べていたら、ある和竿コレクターのHPを訪問することが出来た。

「竹林の凡人」(コードネーム)による『私の和竿・和釣具あれこれ』というブログだ。ご本人のプロフィールには、

「竿とカメラを携えて山河を歩くのを楽しみにしてきました。和竿との付き合いも40年を超えてしまい、そろそろ

納竿の準備を考えるようになって、つきあってくれた和竿達の棚卸しをしてみようと思い立ちました。」と記され

ている。2012年に開設し、50余名を超える江戸和竿職人たちのコレクション(俊行作だけでも種々10本あり)と郡上

竿や前橋竿などの地方竿を、実際に購入し使ったものだというから、いやはや前代未問の希少コレクションと言わ

ねばなるまい。それぞれの竿を写真公開し、ご自身のコメントも載せておられるので、すでに物故された職人さん

や資料の乏しい和竿の詳細を知るには、大変貴重なブログと拝見した。


私自身は、江戸和竿の研究者でもないし、ましてやコレクターでもないので、数多くの江戸和竿と竿師達の詳細に

ついて触れるつもりもないが、「俊行作」と「竿かづ」については、このコレクションの写真とコメントを拝見し

て、とても懐かしい気持ちになった。このブログにも紹介されている江戸和竿師たち(和竿カタログが存在した!)や、

ネットで検索できた「江戸和竿協同組合」の組合員名簿(作成年度不詳)、あるいは「東京和竿睦会」作成の「東京

和竿師系図」(昭和57年12月 寿作編集の一部)などにより、凡その江戸和竿師達の昨今が見えてきた。


それらによると、竹製和竿のルーツは240年程前の江戸時代(天明3年 / 1783年)に初代泰地屋三郎兵衛(松本東作)か

ら始まり、現在も「東作」/「銀座東作」/「東作本店」の屋号でその技術が継承されている。昭和57年に発足した

竿師親睦団体「東京和竿睦会」は、伝統技術の研究と継承を計りながら、東京釣用品協同組合(平成11年解散) ⇒ 

「東京和竿協同組合」と変遷しながらも、和竿師達の命脈は保たれている。もちろん、こういう組織に参加しない

竿師たちも多くいたと思われるが、戦後の釣用具メーカーによるグラスファイバーやカーボン・ロッドの開発によ

る機械生産・大量販売は、手製の竹製和竿を流通からどんどん締め出すこととなった。数多くの竿師達も後継者が

なかったり廃業したりで、時代の逆風をまともに受けたと想像される。





使用中の川虫取りネット(上右:川石の下流に置いて持ち上げた石をごそごそやる)・竹製ピンセット(上中:近くの
ホームセンターで入手)・桐製餌箱(上左:水苔を入れて餌持ちを良くする)。
餌箱はベルト通しの金具を外して、穴を木製ボンドで楊枝を埋め込み塞ぎ、左右に穴を2つづつ開けて丈夫なひもで縛った。
カメラ用ダブル・ストラップを付け直し、胸下げ型に改良した(下)。



四代目泰地屋東作(松本三郎兵衛政次郎)の配下には、27名の高弟の名が系図には記されているが、一時代を築いた

盛業振りが垣間見られる。その中の一人「東俊」(岡本俊夫)の弟子に「俊行作」(伊田俊行)の名があった。昭和4年

(1929)川口生まれ、昭和25年東俊に弟子入り、昭和33年独立、平成11年(1999)没、後継者はなかった。つまり、

「俊行作」は、それ以降作られていないのだ。昭和59年には、江戸和竿が東京都から「江戸切子」「本場黄八丈」

「江戸染め小紋」などとともに『伝統工芸』に指定され、平成3年には通産省から『伝統工芸品』に認定された。

高価な工芸品的価値は高まったが、時代の推移とともに継承者不足が心配される業態ともなってしまった。


「竿かづ」は、「和泉屋」(石川民次郎)を継承する「竿銀」(長田銀之助)の後を継いで、萩原一夫が、昭和20年代

に創業した(初期は竿一の銘)。「竿かづ」の銘は、創業10周年を記念して使い始めたものだ。旺盛な制作活動の

中から、「特選作」/ 「流石作」/ 「独歩作」の銘(高級品に与えた)も使った。引退は平成13年(2001)、3人の弟子

が技を継承し、「竿かづ工房」(永井雄二と直井豊)と「竿中工房」(中台泰夫)が現在も営業されている。平成8年

(1996)に作成された江戸和竿師24名の一覧(東京釣用品協同組合)の中には、「俊行作」と「竿かづ」の名もまだ

記されているから、21世紀に替わるころを境に、江戸和竿師達の生業を追い込んだ苦境が見て取れる。現在の

「江戸和竿協同組合」の会員名簿には、「俊行作」も「竿かづ」も銘はすでに載っていない。


<この項つづく>


MY和竿を巡る渓流釣りの記憶(その3.竿かづと尺山女魚)




「竿かづ山女魚竿 4.5m 6本繋 280g」石突は鉛製 替え穂付き、ラベルに<㈱日東釣竿製作所>と表記在り。しっかり
とした先調子で、゛剛腕゛とも言うべき堅調子だ。この竿では山女魚も釣ったが、岩魚釣りがもっぱらで、かかった
獲物をエイヤっと抜き上げることが多かった。かなりハードな使いっぷりにも良く応えてくれた。



甲信越の渓流のみならず、近郊の多摩川・秋川にも良く出かけた。当時八王子に住んでいた私は、夜明け前(3時頃)に

起きて車を運転し釣り場には夜明け時に到着。すぐ支度して川に入り、3時間程釣りを楽しんでから車に戻り、その

まま運転して帰宅。ゆっくりとしたブランチをとる、というようなお気楽釣りだった。まだコンビニもなく、お握り

やサンドイッチなどを簡単に買えるような時代ではなかったので、飲み物と果物だけ持参という簡単な用意しかでき

なかった。それでも、きれいな水とオゾンに満ちた渓流環境に身を置くことがとても楽しかった。




「竿かづ」の角銘、やや角丸だ。



この竿での一番の思い出は、北秋川で尺ヤマメを釣り上げた時のことだ。秋の台風がもたらした大雨が止んで3日

後、何時もは小ヤマメを釣り上げることの多いこの川も、「雨後の増水」の濁りもやや取れてきただろうと、期待

しながら出かけた釣行だった。上流域の大淵に掛かった吊り橋を渡り、渕の流れが淀んで瀬に流れ出す前のゆるや

かなポイントだった。採取した餌の川虫をそっと流すと、2投目にふいに目印が止まり、すかさず合わせると反転し

た魚体が水面をまるでイルカのショーのように立ち泳ぎして水面を走り回った。「デカイっ!!」とつぶやきながら、

竿を立てて慎重に瀬尻に魚体を寄せ、網に取り込んで見たのは尺を超える大山女魚だった。スケールで測った37㎝

の山女魚は、後にも先にも達成できなかった私自身のレコードだった。殺生をした最低限の魚体だけ持ち帰るよう

になっていた私は、精悍な顔つきの雄山女魚をそっとリリースした後、思わずため息が出た。「今後こんな魚体に

再び会えるのだろうか?」という予感が頭を過ぎった。北秋川も南秋川も随分と通ったが、そのうち首都圏から近い

こともあり釣り人も多くなって、なかなかいい釣りができなくなる頃には訪れることも無くなってしまった。



私の前期渓流釣りの竿収めとなったのは、1983年秋の金峰山川(千曲川最上流の支流)だった。渓谷というよりは山里

を流れるゆるやかな川相で、釣り支度をして川沿いを歩き始めたら、とたんに2匹のイワナが足音に驚いて対岸の岩の

底に逃げ込むのを見た。「これは居るぞ!」と思いながら、足音に気を配りながら上流につり上がっていったのだが、

さっぱり当たりがなかった。なだらかな渕から流れ出したザラ瀬に餌の川虫を流してみたら、ふいに目印が止まり、

次の瞬間下流に大きな魚体が走った。竿かづの竿を伝わってくる手応えもずっしりしていて、かなりの大物だと思わ

れた。瀬のあちこちを竿を立てて慎重に泳がせ、体力の弱るのを待って採り込んで見ると、尺を超える大岩魚だった。


ちょっと安心して撮影用のカメラを取り出そうとしたら、突然大岩魚が下流に向かって逆走したのだ。上流に竿を

向けていた私はすぐに対応できなかった。バキっ という音とともに竿先の一番穂が折れ、魚体と竿・仕掛けが下流

にゆっくりと流れていった。幸いなことにザラ瀬が長く続いていたので、竿先と大岩魚を両方回収し、魚体はリリ

ースした。この時折られた一番穂が二番穂にめり込んだまま、その後この竿を使うことも無くなってしまった。




当時使っていた餌箱各種。桐製餌箱は中底に細かい金網が敷いてあり通気性が良く、水苔や刻んだ紙を入れておく
川虫の持ちが良い(左・銘なし、最近改良して胸下げ用のストラップを付けた)。スブルース材で手作りした餌箱は、
蓋つきポケット2つ・真ん中は魚籠に釣った入れられるように空けてある(右)。「静とら」の銘入り竹編餌箱は
ベルト通し用、中底に木綿二つ折りの小布巾湿らせて入れ餌を良くした(上)。



河川環境が激変し、渓流の自然環境が壊れていき、コンクリート造りの箱川がどんどん増えていったこともあるけれ

ども、竿かづの竹竿を折られてしまったことで、何か心が折れてしまったような気持ちになり、MY和竿を使っての

渓流釣りを封印する結果となった。当時経営していた会社の事業環境も厳しくなり、ゆっくりと渓流釣りを楽しむよ

うな時間も無くなってきたという事情もあった。ただ、再び渓流の岸部に立つことを得て、この竿を専門の竿師に

直してもらい、もう一度使ってみたいという気持ちになっている。伝統工芸品としての骨董的価値よりも、竿本来の

使命を全うさせてあげたい、という思いだ。今年のシーズンオフに、この竿の修理ができれば上々というものだ。




例によって当時の画像がないので、ネットで見つけたものを出展明記でお借りします。私の釣り上げたのは、鼻曲り
の精悍なオスだったが。上州屋白河店 ショップニュース「鬼怒川の大ヤマメ、見事な尺上」より。


<この項つづく>


2019年8月30日金曜日

MY和竿を巡る渓流釣りの記憶(その2.俊之作と大物岩魚)




渓流の岩魚・山女魚釣り支度、最近の餌釣り(川虫・ブドウ虫)用の目印はやや大きめの物を使って視認性を良くして
いる。要するに遠方の小さな目印(色糸や蛍光矢印など)が、年のせいで良く見えなくなったわけ!? 毛針は、浮き下に
タイプ違いの三つをつけて、フロータイプとシンクタイプに別けた私独自の仕掛けだ。餌入れ桐箱は、最近改良して
仕立て直したもの、ストラップ付で肩から胸につるすようにした。木製ランディング・ネットはリバーピークス社製。




その当時(昭和50年代ー1970年代後半から1980年代前半)、関東・甲信越の渓流にしばしば出かけていた私は、単独

行もあったし、ルアーやフライ釣りを始めたばかりの釣り仲間と一緒に出掛けることも何度かあった。信州の高原

育ちの私が専ら案内役で、釣れそうなポイントを教えてあげる、という感じだった。戸隠連山に源流を発する裾花川

にも良く出かけた。東京からそれぞれの愛車を運転して、高速道路と山道を駆け巡っての釣りだからやっぱり元気

だったとしか言いようがない。鬼無里の上流のとあるポイント(カーブする渕の流れだし)で、「そこへルアーを放っ

たら!」と指さして彼に教えたら、ルアー(迷彩色のフラットフィッシュ)を着水させ引いた瞬間に20数㎝のイワナが掛

かってきたのには驚いた。その頃は魚影が濃かったこともあるが、ルアー操っていた本人も驚愕していたのを今でも

鮮やかに思い出す。


この俊行作の和竿で一番思い出に残っているのは、同じ裾花川の第一ダム上流、両側田圃の開けた川筋で43㎝の

大岩魚を釣り上げたことだ。この竿を使い始めて手に慣れて来た1978年の夏の暑さが一服した秋の初めのことだっ

た。源流域の巨大岩がゴロゴロある様な川相と違い、如何にものどかな景色が広がる上流域だったので、私自身も

びっくりしてしまった。大きくカーブする渕から流れ出したザラ瀬のポイントだったので、こんな場所に大岩魚が

いること自体が信じられなかった。北信濃の義父宅に戻り、釣り上げた岩魚を見せたら「えらいデカいのを釣っ

てきたね~!」と宣い、塩焼きにして家族みんなでお腹に収めてしまった。その頃は、パソコンやインターネット

などなく、写真に収めて投稿するような環境もなかったので、画像など何も残っていないのだ。しかし、私の記憶

には今もしっかりと残っている(釣り人の話はほら吹き交じりで、魚のサイズもやたら大きくなる、とは言うが...)。


河川各地の漁業組合による魚の放流や釣り人対象の遊漁料の徴収もまだ実施地区が少なかった、ある意味では幸せ

な時代だったかも知れない。災害対策の河川護岸工事や堰堤工事などが始まり、1972年に始まった列島改造の怒濤の

様な勢いにより、コンクリートの箱川と化した全国の河川環境も激変ゆく時代だった。






先進のF.F駆動と5ドアハッチバック、フェルインジェクション・システム搭載のワーゲン・ゴルフがこの頃の愛車、
昨今流行のS.U.V(Sport Utility Vehicle)の先駆車と言えよう。釣り道具一式を積み込んで関東・甲信越の渓流を快適に
駆け巡った。この愛車と過ごした時間には、楽しい想い出が沢山ある。画像はカーディーラーのHPより



「俊行作」の山女魚竿は、その当時ではやや柔らかく感じられた。それは、併せて使っていた「竿かづ」の山女魚竿

が゛剛腕゛というか堅調子で私には好ましかったからかもしれない。まだ30代初めで腕力もあったからかと思う。

「竿かづ」を専ら使い、「俊行作」は家に置いてゆくことが多くなり、そのまま再開まで封印されていた。しかし、

今この竿を再び使ってみて、とても手になじんでいるのが不思議な気持ちだ。昨今主流のグラスファイバー・ロッド

に較べればやや重いが、竹素材を伝わってくる魚信と掛けた時のしなりは、我が腕や手指の延長の様でとても好ま

しいのだ。


さて、ネットの岩魚大物の画像を探していたら、こんな画像が見つかった。私の記憶の中にある岩魚を、今は他人

様の画像をお借りして再現するしか手はないのだが、出典を明記して載せさせていただこうと思う。




「つり人」2016年10月号 「ブナに守られたべっぴん尺イワナをてんからで」より。私が釣り上げた岩魚は、ダム
から遡上してきたためか斑点の薄いシルバー岩魚だったが。



<この項つづく>


MY和竿を巡る渓流釣りの記憶(その1.70年代の熱中)




「俊行作 山女魚竿4.5m 7本繋 250g 」石突は白象牙製、替え穂はついていない。胴調子は先調子だが、しなやかで
粘りが強い。大物釣りにも十分耐えうる。使い始めた当初は、竿の癖直し(特に一番穂)に毎年シーズンオフになると
「火入れ」のためにお店に預け、竿師に手入れしてもらった。なかなか費用と手間もかかるので、やや調子の硬い
「竿かづ」を使うことが増えた。



「俊行作」の角銘は、使い込んでやや薄れてはいるが。



7月一杯続いた長い梅雨の後、いきなり猛暑日がやって来て連日汗だくになった8月の日々も、台風一過の後朝晩の気

温が下がって来た。ようやくエアコンなしでも夜間眠れるようになり、ほっと一息。禁漁までの秋の短い釣りシーズ

の準備をしながら、竿や釣り道具の手入れをしていたら、「あの人は今どうしている?」ではないけれども、気にな

ることが出て来た。一度封印していた渓流釣りの封印を解いて、近所の多摩川や信州白馬の姫川などでオイカワや

山女魚・イワナに出会える楽しさをまた満喫しているが、再び使い始めた竹製和竿(江戸和竿とも呼ばれるが)の「俊行作

(としゆきさく)」や「竿かづ」などの銘品(ブランド)や竿職人たちのその後はどうなっているのかを知りたくなった。


というのも、私自身が渓流釣りに嵌まっていたのは年齢が30代の前・後半で、昭和50年代前半から60年代前半

(1970年代後半から1980年代前半)にかけての7年間ほどだった。現在からすると40年程度前の話だ。当時経営し

ていた会社も順調に推移していたので、趣味のあれこれに精を出し、とりわけ渓流釣りにのめり込んでいたのだ

った。当時京橋に在った「つるや釣具店」(我々渓流釣り仲間の間では「銀座つるや」の呼び名で親しまれていた

高級志向の釣具店)に足しげく通い、色々釣談議をしながら竿や釣り道具を買い求めるのが楽しみだった。竿職人が

作る和竿のみならず、スウェーデンABU社の発売元やイギリスHARDY社の代理店を営むなど、海外の先進的釣り

(ルアーやフライフィッシング)を紹介するパイオニア的なお店だった。


当時の店長さんに相談に乗ってもらいながら、「俊行作」の山女魚竿4.5や「竿かづ」の山女魚竿4.5 / 3.9 を手に入

れた時はとても嬉しかったのを覚えている。その他にも、ルアー用に「喜楽」の渓流用のパックロッドや、テンカ

ラ用につるや特製「毛鉤硅竹」の竿に加え、毛鉤作成キット・毛鉤材料も揃えた。竹編魚籠や桐製餌箱・竹編餌箱

などなど、よくもまあ色々と手に入れたもんだ! と今では苦笑するが、当時は勢いが止まらなかったのだろう。私は

伝統工芸品のコレクターではないので、それらの竿や道具は実際に渓流に出かけては使いこなしていた。このお店

は、1986年に台東区寿に移転し、現在はフライフィッシング専門店として営業されている。


1970年代当時、「Made in USA カタログ』人気からひろがった「アウトドア・スポーツ」の流行により、釣りも「ゲー

ム・フィッシング」や「キャッチ アンド リリース」などのコンセプトが良く知られるようになり、釣り=食材の確保、

という古来の価値観とは別の価値観が若者たちを魅了した。本栖湖での大物トラウト釣りが話題を集めていたし、

開高健の「フィッシュオン」の出版が1971年(朝日新聞社・秋元啓一の写真入り)だったし、そのような先進的な

釣りを紹介するシンボル的存在が、千駄ヶ谷・鳩森守神社近くにあったルアー アンド フライの「釣彦」だった。ここ

にも時々通ったが、一番の理由はその店の対面にある理容室が私の通い店だったことによる。「ABU」のリールと

「フェンウィック」のロッドは、この店で手に入れた。オーナーは元海軍軍人で、物静かだったが丁寧に応対して

くれたのを覚えている。現在このお店はすでに閉店され、跡地には5階建てのマンションと1F別店舗があるのみだ。







竹編魚籠(要所を皮で補強してあった)もつるや釣具店で入手した。腰下げ型を自分で改良して肩掛けストラップを後ろ
側に縫い付け、前面に釣用具の小物入れ(マジックテープとホックで脱着可能に)、内側上部には二つのエサ入れ(真ん中は
魚入れ用の空きスペースあり)を組み込んだ(これも脱着可能)。材料はホームセンターで北米産スブルース材を入手して
加工した。なかなか使い勝手が良かった。



2012年9月に故郷の裾花川で、凡そ28年間の封印を解いて渓流釣りを再開した経緯についてはこのブログ(「故郷の

川で、魚に遊んでもらった母の7回忌」2012.9.30)ですでに述べた。また、押入れの奥にしまい込んでいた「俊行作」

の和竿をひっぱりだしてきて、再び渓流への釣りに携行した経緯についても、このブログで触れている(「2017年

中津川渓流釣り・惨敗記その2」2017.9.15)ので、興味のある方は参照願いたい。しかし、再び手にした「俊行作」

の竿で、その年の姫川では8寸の源流イワナ(日光系)と、銀化した尺ヤマメを釣り上げることが出来たのは驚きでも

あり、また和竿の素晴らしさを再認識する機会ともなった。40年以上も前に(1977年秋だったように思う)、つるや

釣具店で初めて手に入れた山女魚竿が、今だに十分使えるどころか、魚信を伝える当たりと掛けた時のバネの効いた

確かなしなりは、グラス竿では決して味わえない極上の釣り心地だと感じている。あと何年・何回を、澄んだ水辺

と川音のせせらぎの中で時を過ごせるのか? 工芸品としてしまい込まずに、使い続けて竿としての使命を全うさせた

いと思っている。


<この項つづく