2022年6月12日日曜日

縄文遺跡とイングリッシュ・ガーデン (上.信.甲州の初夏旅その4)



国宝の土偶「縄文のビーナス」(高さ27㎝、意外と小さい)、ハート形の顔と逆ハート形のお尻が、ふっくらとした
印象だ。妊婦の姿は、安産祈願や子孫繁栄を願ったもの、と言われているが、そのフォルムは単純化されたかなり
モダンな造形に見える。All Photo by Jovial TAKA



3日目は宿の朝食をゆっくり取ってから、親湯温泉を出発した。前日麦草峠を越えてから明らかに景色が変わり、

蓼科高原の道路を下ってきても、明るいリゾート地の景色が広がっていた。やはり、道路や建物(ホテル・ペンショ

ン・ショップなど)が、長年のリゾート開発の結果配されているので、木立の中の別荘地の趣きと言うかちょっと

洒落ているのだ。この点では、開発の手が少ししか入っていない八ヶ岳東斜面の、鬱蒼とした原生林の風景とは

大分違っていた。

尖石(とがりいし)遺跡は、小学校の時遠足のバス旅行で来たことがある(今から60年以上前!)。その時の施設の

様子などはほとんど覚えていないのだが、黒曜石の鏃(やじり)や縄文土器の数々を見て、「すごいなぁ~ 5,000

年も前だぜ!」と感心したことを思い出す。メルヘン街道やビーナスライン・エコーラインは、この方面に来た時

は良く通っているのに、今まで通過するのみで寄ることはなかった。それを今回旅番組を見たことで、再び寄って

みようという気になったとはいえ、きっかけが「菊池桃子のゲスト」というのも、かなりミーハーだね、と連れに

言われてしまったが... 連れも、NHK「ブラタモリ」の諏訪特集で、黒曜石文化での諏訪・茅野地区は大したもん

だ、というのを見て、尖り石遺跡に行ってみたいと宣ったのだからいいとこ勝負なのだ。でも、きっかけはどうあ

れ来てみて良かったと思った。日本の古代・縄文時代をイメージするには、なかなか充実した資料館だったから。




同じく国宝の土偶「仮面のビーナス」(高さ34㎝)、ビーナスに較べるとシャーマン(巫女)的色合いが濃く、逆三角形
の仮面を付けて祀りをする女性を表現したものと見られている。ビーナスと並べられた展示ケース(やや後方)に置か
れていた。



幾つかの展示室に沢山の縄文土器が展示されていたが、八ヶ岳山麓の縄文文化の盛期を思わせるような、装飾性豊か
で迫力充分の土器だった。



紀元前3,000年頃(縄文中期)の蓼科高原は、湧き水や河川に恵まれ山々も近いので、川魚や獣などの食料も豊富、木の

実や穀物もあり、出土する黒曜石を利用して狩りの道具(弓矢や斧)も作られた。また、縄文土器として出土した食器や

穀物入れもたくさん作られ、一大集落群(与助尾根遺跡・棚畑遺跡・中ツ原遺跡など)として人々が暮らしていたの

だろうと推察される。その暮らし振りは、「茅野市 尖石縄文考古館」で見ることができる。この3日間の旅行は晴天

に恵まれ、ここを訪れた朝も快晴の青空だった。ひと通り展示物を見てから、少し離れた林の中の平地にある与助

尾根の復元住居を見た。茅葺の竪穴住居が数棟あったが、手入れが行き届かずに骨組みの丸太だけが残っているも

のもあった。



与助尾根の復元住居、画像は「ハチ旅」より。



 出土品の中から、石器や黒曜石やじりを集めたコーナー。



さて、旅の最後には「バラクラ イングリッシュガーデン」を訪れた。尖石遺跡は、エコーラインから100m程東方

に入った場所にあったが、親湯温泉からビーナスラインで高原を降りて来る途中にこのガーテンはあったので、再び

少し引き返すことになった。私も名前は聞いていたが今まで寄る機会がなく、また連れは寄ってみたいと思ってい

たがなかなか機会がなく、まだ午前中なので、花を見てゆっくり昼食にしよう、と意見が一致した。

ガーデンの案内によると、人気のバラ・ガーデンは6月中旬から7月中旬がシーズンとのこと。残念ながらバラは

見られなかったが、開園以来30年を経ている庭園の風景は、花々と樹木・草々に溢れ、それらが混然一体となった

素晴らしいものだった。旅の最後に、こんなきれいな風景に出会えたのも、幸運の女神がほほ笑んでくれたからか

もしれない。




ネギ属の「アリウム」、そのネギ坊主状のムラサキ丸球が咲き乱れる様も一風変わっていて面白い。浮かぶ風船玉
の様な風景を楽しんだ。



入口脇のギリシャ神殿・エンタシス(円柱)を思わせるモダンな東屋、初夏の花々が咲き乱れていた。



高原では、オオデマリの花もひと際きれいに見える。



珍しい八重咲のオダマキ、紫花の色も濃い。



薄ピンク・四枚花弁のクレマチスは「モンタナ」だろうか? 壁面一杯に咲く様は自由奔放でとても愛らしい。この
花のような女性には、男どもは惑わせられっ放しになるだろうね!?




フォレストガーデンの緑濃い樹々の前庭は、イングリッシュ・ブルーベルの薄紫小花のジュータンとなっていた。
ちょうど真昼時の晴れた空から、光が差し込んでいた。この風景にインスピレーションを得て、旅から帰ってから
連れは新しい油絵の制作に取りかかった。




このガーデンでの昼食に食べた「ベーコン・エッグタルト」(キッシュ)のランチセット、卵入りの生地がふわふわと
美味しかった。併せた珈琲も、さっぱり味で良かった。画像はガーデンHPより。


<この項終わり>



2022年6月9日木曜日

驚きの蔵書3万冊! 蓼科親湯温泉(上.信.甲州の初夏旅その3)




蓼科親湯温泉のLiblary Loungeには、単行本・全集・文庫などに収められた文人たちの作品が凡そ3万冊、本棚に
並べられていて自由に読むことが出来る。ソファにゆったりと座って、本の世界を楽しめるのは、稀有のサービスだ。
客室に続く廊下各所にも書棚が配されている。 All Photo by Jovial TAKA




楽天トラベル(旅行のオンライン予約を扱うウェブサイト)が実施調査した「2019年 シニアに人気の温泉地ランキン

グ」(60歳以上の旅行客が、実際に宿泊した施設の人数×宿泊数を集計したもの)によると、蓼科温泉は、全国1位

の嬉野温泉(佐賀県)についでの2位、3位は芹ヶ沢温泉(霧ヶ峰・白樺湖エリア)となっている。そういうデータを

知るのも初めてだが、北八ヶ岳山麓の高原リゾート地蓼科が、かなりシニア層に人気があるのには驚いた。奥蓼科

(渋川に沿った渋温泉・渋辰野館・横谷峡・御射鹿池など)へは、一昨年の秋訪れたことがあり、「信玄の隠し湯」

と言われる泉質を大いに楽しんだが、蓼科湖やロープウェイ、ゴルフ場やホテル・ペンションがある「ビーナス

ライン」側は、どうも俗化され過ぎている印象があって行かず仕舞いでいた。




ロビーに続くラウンジは、四方を書棚の本に囲まれた図書館の様だ。落ち着いたインテリア(椅子やソファ)が、寛い
だ読書の時間を提供してくれる。手前右側はみすずLounge Bar>




蓼科温泉は、蓼科山(2,530m)の南麓を流れ下る滝の湯川に沿って点在する、親湯・滝の湯・小斉の湯・蓼科高原ホ

テルなど6軒の温泉旅館の総称とのこと。ある旅番組(「朝だ、生です旅サラダ」TV朝日)で今年の初め、゛縄文お宅゛

の菊池桃子が諏訪・蓼科を旅したのを偶然に見て、100年以上続く(創業大正15年)老舗の温泉宿を知った。それが

この蓼科親湯(しんゆ)温泉だった。源泉や料理もさることながら、私が興味を抱いたのは Library Lounge の゛

蔵書3万冊゛という、温泉宿とは随分かけ離れたイメージの本収集だった。また、それらを随意にラウンジや部屋

で読めるというのも魅力だった。蓼科温泉の歴史は諸説あるが、江戸時代にはすでに湯治場として近隣住民が訪れ、

大正・昭和にかけては文人達(歌人・小説家・映画人・出版人など)が温泉保養と創作活動・交流の場としてこの温泉

に集ったと言う。宿のHPが紹介するゆかりの文人には、歌人(伊藤佐千夫・島木赤彦・柳原白蓮など)・作家(太宰治)・

映画監督(小津安二郎)などが挙げられているが、「文人」という古き良き時代の呼称を懐かしく思うシニアの方達

も多いのだろう。今時の若い人たちには、すでに縁遠いかもしれないが...




部屋玄関のウェルカム・コーナーのインテリアも洒落ている。バリアフリーの動線(段差のない玄関スロープ、客室
やバス・トイレの手すりなど)と、落ち着いたクラシック・モダンの内装は、かなりクオリティが高い。旅慣れして
いる連れも、「こんな贅沢な部屋は始めて!」と感激していた。全体の印象として、施設の質は高く、値段はこなれ
ている、という印象だった。詳細を知りたい方は、宿の公式HPをご覧いただきたい。かなり内容充実のHPだ。
https://www.tateshina-shinyu.com/



ロビーフロアの蔵書には、その時代に当館主と交流のあった文人たちに係わる書物・全集に加えて、出版人の岩波

茂雄(岩波書店創始者 諏訪市出身)とみすず書房の小尾俊人(創業者の一員 地元茅野市出身)2人の地縁から、「岩波

文庫の回廊」と「みすず Lounge Bar」が設けられている。その他、映画・音楽・美術関連の書物も多く、本好き

の方は連泊して読書にふける方もいるらしい。私は書棚をひょいと覗いていたら、「井伏鱒二自選全集12巻」を見

つけ、補巻に「釣人」(短編)があるので部屋に借りて行って夕食後に読んでみたが、昔読んだ氏の釣り話を思い出

して、とても懐かしかった。



部屋の調度やパジャマ・ガウンなども、上質で心地よいものを用意してあった。Photo by Roco



「井伏鱒二自選全集」(新潮社昭和60年刊)の補巻に載っていた「釣人」(30頁程)は、氏の釣りの師匠だった佐藤
垢石(こうせき エッセイスト・つりジャーナリスト)や、良く通った山梨県の川釣り名人たちとの交流を綴った短編
だ。道具や釣り方・エサやアユ釣りの囮アユなどについての、師匠の技へのこだわりや弟子の習得ぶりを描いた、釣
り文学の好編でとても面白かった。釣り雑誌やYouTube動画など無い時代には、師匠の口伝・技の直伝しか釣り
の上達の道はなかったのだ。井伏氏の釣り弟子は、有名な開高健(小説家・ノンフィクションライター)だが、昭和
の文人たちはすでに皆鬼籍に入ってしまった。



この宿には午後早目に着きチェックインしたのだが、駐車場もロビーも結構混んでいた。後で解ったことなのだが、

マイクロ・ツーリズム(近場旅行)に力を入れている行政の推しで、「県民割」(1人1泊5,000円割引き+地域

クーポン2,000円)とか、宿の用意する「ワクチンクーポン優待10%OFF+館内2,000円利用券付き 平日限定」など

の豊富なプランが用意されている。シニア層だけでなく若いカップルやファミリーも多く、ちょっと意外だったが、

この宿に泊まって温泉に入り食事を楽しんでみたら、これはかなりリピーターが多いな、と感じた。源泉かけ流し

の大湯・露天風呂・貸切露天風呂・女性専用露天風呂など、温泉も種々揃っていて、泉質が弱酸性の単純温泉と言

う柔らかな肌当たりがとても良かった。混雑を避けたいと思い、大湯(座敷温泉)と外続きの露天風呂しか入らなか

ったが、十分満足した。他の露天風呂などは、またの楽しみとしたい。



大湯はお座敷風呂と呼ばれ、湯船手前の洗い場は全て特殊な素材で作られた畳状の床で、ふかふかと足に心地よく、
座ってもしっとりとしている。(画面右側)



夕方でも明るい露天風呂の先には、滝の湯川の流れと新緑の樹木が広がっている。渓流を渡ってくる風はいかにも
涼しい。温泉の画像2点は宿のHPより。


食事は、「宴どころ みすずかり」の個室が用意されていて、夕・朝食ともそこで食した。連れは Nagano Wine の

白を、私は諏訪の地酒「舞姫翠露」を飲みながら、当宿推しの゛和フレンチ゛を味わった。地元の食材を使った調

味にもシェフの創意工夫が感じられ、お皿や盛り付けも見た目に心地よく、何よりもそれぞれの量がほどほどで良

かった。また、温泉旅館によくあるやたら多いメニューとボリュウムは、もうこの年になると食べ切れなくて困る

のだが、その点でも客層のことをよく考えられていた。給仕してくれた若い女性スタッフの勧めで、ご飯ものは

「蓼科スープカレー」にしたのだが、これがなかなか美味しかった。若い従業員たちの推しでこのメニューが実現

したのだが、当初はシェフが「とんでもない!」と怒って反対したとか。今では、当宿随一の人気メニューとなって

いるようだ。感染対策も徹底していて、安心して食事ができた



「蓼科 山キュイジーヌ 春」の夕食メニュー(画像はHPより)、下にお品書きを載せておきます。







「蓼科 山ごはん」の朝食、峰岡豆腐のおぼろ豆腐とイワナの一夜干しが美味だった。野菜はサラダバーで。




日本映画を代表する映画監督の一人「小津安二郎」は、晩年の創作活動の拠点として蓼科に仕事場を移し、脚本家

の野田高悟と共にシナリオを執筆し作品の構想を練ったという。無藝荘(むげいそう)と名付けられた仕事場兼もて

なし館での暮しは、本人著の「蓼科日記抄」に記されており、度々訪れた親湯温泉の記述が、十数ヶ所あると言

う。ロビーの一角には、小津監督作品の「彼岸花」(1958年制作・松竹公開)を上映した「蓼科高原映画祭」(2019年)

の紹介資料が展示されていた。蓼科は市民文化度がなかなか高いのだ。


温泉宿泊施設としてのこの宿のレベルは総合的に高く、滞在中に部屋の設備や従業員のサービスについても、何か

不都合を感じることがほとんどなかった。強いて言えば、部屋に備わっていた珈琲サーバーの「エスプレッソ・マ

シーン」(イタリア製?)の使い方が良くわからず、連れも面倒くさいと一瞬戸惑ったが、取説を見ながらやってみた

らおいしいコーヒーが飲めたこと。そして、ガラス張りのシャワールームを私が使ってみたら、外国製(らしき)の

大きなシャワーヘッドに戸惑ったが、温水の勢いがしっかりしていて気持ち良く使えたことぐらいかなと思う。HP

でも紹介されていたが、経営に係わる事故(2011年にガス爆発事故・2018年に食中毒事故)を起こした後、2019年に

全館リニューアル(バリアフリー・ユニバーサルデザインに改装、客室の内装一新・部屋タイプのバリエーション差

別化など)をするとともに、コロナ感染対策や従業員のサービス体制強化を計ったことが、訪問客の好評化に繋がっ

ているように思う。私達はここへ初めて訪れてみたが、このレベルを維持していただいて、また遊びに来られるよう

にして欲しいのが願いだ。


<この項つづく>



2022年6月6日月曜日

金峰山川の、イワナ・テンカラ釣り(上.信.甲州の初夏旅その2)



澄んだ冷たい流水の山岳渓流に生息するイワナとの出会いを求めて、釣り人(フライマン・ルアーマン・テンカラ
釣り師など)のあこがれの地である金峰山川を今回訪れた。私にとっては、3度目の正直で実現したテンカラ釣りだ
った。All Photo by Jovial TAKA




金峰山(きんぷざん or きんぽうざん)は、山梨県と長野県にまたがる日本百名山の高峰(2,599m)で、金峰山川は

この山を源流として北方に流れ下り、川上村居倉で千曲川と合流する。長野県側読みでは「きんぽうざんがわ」

なのだが、ここでは慣れ親しんだ「きんぷざんがわ」と呼ぶことにする(県民のプライドもあってちょっとややこし

いのだ)。秩父多摩甲斐国立公園内の高峰としては一番高く、国師ヶ岳(2591m)・旭日岳(2,579m)・甲武信岳

(2,475m)などを連ねたけわしい山岳地帯にある。従って、民間の野放図なリゾート開発から免れた貴重な自然遺産

が残っており、金峰山荘や廻り目キャンプ場などの施設もすべて川上村の公共施設だ。周辺一帯は冬季には降雪も

多く、キャンプ場や登山道も4月末から10月一杯の運営となっている。

実際、昨年の秋(10月初め)にこの川を訪れた時は、支流西俣川に設けられた遊歩道を連れと歩いてみただけで、す

でに禁漁期間ゆえに竿を出すこともなかった。今年の4月初めに弟との旅行の折に、テンカラ釣りを試みるべく再度

この川に来てみたのだが、まだシーズンには早く金峰山壮とキャンプ場に続く路は、まだたっぷりの雪で覆われて

いてすごすごと引き揚げざるを得なかった。今回この川でテンカラ釣りをしてみて感じたのは、流水の冷たさ(晴天

の午前中で水温8℃)と透明度の高さだ。川底の石も白いので、釣り人からイワナの魚影が見られると同時に、岩魚

からも釣り人の姿がすぐ確認されてしまう。それ故、ポイントへの慎重なアプローチが必須だ。また、巨岩とゴロ

ゴロ石の川原を遡行するのも結構体力が要るし、浮石の上に不用意に乗ることも避けねばならない。





急峻岩山・金峰山と金峰山壮



花崗岩(白い御影石)のゴツゴツした岩山の頂上を持つ金峰山から流れ出す急流の、巨岩と大きなゴロゴロ石の間を、
イワナのポイントを求めて遡って行く。



深みのあるポイントは限られているが、イワナはしっかりと生息していた。



時には、両岸の樹枝に仕掛けを絡ませてしまい、毛鉤と針素を取られることもある。テンカラも短めの竿、サイド・
キャストが有効だ。フライやルアーも同様だろう。




渓流を上り始めたすぐに、流心脇のポイントがあり、対岸頭上の樹枝を避けるため竿のバネを利用して横から仕掛

けを振り込んだ。その直後しっかりとした当たりがあり、きれいな魚体のイワナがかかった。慎重に網に取り込

んだが、その時胸元に搭載したデジカメをまだスタートしてなかったことに気づいた。なんということか!!  従がっ

て、残念ながらヒットの瞬間の動画は取れず仕舞いだった。胸ポケットのスマホで、ネットに取り込んだイワナを

撮影したが、それが下の画像だ。




急流の白い泡巻く流心脇に、良いポイントがあった。



 ▢黒毛茶胴の毛鉤に食らいついてきたのは、源流育ちのピンひれイワナ。すっきりとしたきれいな魚体だった。体長
20㎝弱、「ようやく出会えたね!」とつぶやきながら流れに戻した。



ピンひれイワナに出会えたことで気を良くし、再び川を遡って行く。今度は、デジカメもずっと長廻しし、再びのヒッ

トチャンスを動画に記録すべく、ポイントに仕掛けを振り込み続けた。ほどなく2段の大きな堰堤があり、渕はやや

小石に埋まっていたが、ここは期待できると気持ちが高まった。右岸の下流からサイドキャストすると、毛鉤を追っ

て魚影がススッと近寄って来た。やや早合わせだったためヒットせず、再び慎重に仕掛けをキャストしたが、もう

相手は毛鉤を追わなかった。「見破られたかぁ~!」
 

1時間半・200m程の遡行で、釣り上げたイワナは1匹だったが、毛鉤を追う他の魚影も確認できたし、きれいな

渓流で釣りを楽しめたので大いに満足だった。最近は、1回の釣行で1匹に出会えればそれで恩の字! という心境

なので、その後調査を兼ねて本流に移動した。金峰山壮の案内所で、本流の東側にあるふれあいの森(キャンプ場や

バンガローなどの施設がある)への入場料を払い、ゲートを開ける鍵ナンバーを教えてもらい入場した。一部道が

凸凹なので、オフロードタイプの車でないと底をこする、と警告があったが、大丈夫だった。もう真昼時で陽光

も強く気温も上がっていたが、4~5ヶ所竿を出してみた。この時には毛鉤を追う魚体は確認できなかったが、岩

間を流れる流水と連続する渕がなかなかいい感じで、天候や時間を見て、またの機会に訪れたい思いを強くした。

コンビニで買ったお握りと、持参したポットのお湯でお味噌汁を作り、川岸での昼食とした。5月の風は爽やか

で湿気も少なく、恵まれた好天の下での食事はとても美味しかった(安上りだったけれど!?)。午後は、佐久甲州

街道に戻り、松原湖を抜けて麦草峠を越えた。峠付近の道路脇や山陰にはまだ雪がたっぷり残っていたのにはビッ

クリ! しかし、道路はよく整備されていて快適なドライブだった。その夜の宿は蓼科の親湯温泉、ある旅番組を偶

然見ていた私が、一度訪れてみたいものだと思っていた老舗の温泉宿だ。夕刻早目にチェックインし、源泉かけ流

しの温泉を早速楽しんだ。
 



今回のテンカラ釣りでは、堰堤は1か所のみ。多くの釣り人が竿を出して行くポイントだが、イワナは生息して
いた。それにしても水がきれいだ。透明度は、はんぱないのだ。



なかなか手強い相手だった。




竿(ロッド)は、短めの渓流テンカラ竿(3,3m)、両岸の樹枝対策に慎重なキャスティングが必要だった。



シーズン初期(通年かもしれない?)は、黒毛毛鉤が有効なのだ。



白毛毛鉤も用意して行ったのだが、今回当たり無し。川虫の羽化が始まり、水面を飛び交う様になれば、大いに有効
なのかもしれない。この辺りは、フライの毛鉤と微妙に違うようだ。




田淵義男氏(金峰山北嶺の山里で暮らした自然派作家・園芸家・薪ストーブ研究家・家具制作者)も愛したこの川で、
氏はフライ・フィッシングを楽しんだ。私も、このきれいな自然環境が何時までも残ることを願っているひとりだ。





今回のテンカラ釣り動画をYouTubeにて視聴できます。興味のある方は、どうぞアクセスしてご覧ください。



< この項つづく >


2022年6月2日木曜日

真田道を辿り、城址を巡り歩く(上.信.甲州の初夏旅その1)




「完本真田太平記」(池波正太郎作 講談社刊)の第18巻に掲載された図表より。信州上田城と上州沼田城をつなぐ
真田道(さなだみち)は、戦国・安土桃山・江戸時代に活躍した真田一族のゆかりの地であり、今も数々の歴史
遺産が残っていて、訪れる人々を魅了している。 All Photo by Jovial TAKA



生まれも育ちも信州(長野県長野市)の私自身にとって、「真田」(真田氏と真田一族が活躍したゆかりの土地)は、

幼い頃から親しんできた゛ビック・ブランド゛であり、今でも何かと興味を掻きたてる存在でもある。3年程前に

このブログでも、「池波正太郎『真田太平記』を全編読み返してみた」を2回に渡って掲載したが、その折、何時か

「真田道」をたどる旅をしてみたいという思いを綴っている。
『https://jovialtaka.blogspot.com/2019/03/1_15.html』

今回の旅(連れとのドライブ)は、その時の思いを実現すべく、関越道で上州沼田から入り「真田道をたどる」、

それに加えて「金峰山川でイワナ釣り」・「蓼科の親湯温泉と縄文遺跡を訪れる」というロングドライブ・2泊3日

の日程となった。帰りは中央道(諏訪南→調布)を利用した全程走行距離650㎞の旅、上州(群馬県)・信州(長野県)・

甲州(山梨県)を駆け巡った盛り沢山の初夏旅だった。




沼田城は、この地を巡って越後北条氏・甲斐武田氏・小田原北条氏による争奪戦の後、真田信幸(信之)が初代城主と
して築城した(1590 天正18年)が、5代信利で改易となり真田氏91年の治世を終えた。現在は天守閣・本丸御殿
など残っておらず、再建された鐘楼が本丸跡に残るのみで、城址公園として整備され公開されている。




城址公園内の観光案内所には、城跡発掘調査の資料や真田家にまつわる歴史資料(鎧兜など)が展示されている。真田
信之公装着の具足(萌黄絲毛引威二枚銅具足)も展示されていた。なかなかの迫力です。



沼田城址(沼田市)は、広い沼田盆地を見下ろす東側段丘の上にあったが、名胡桃(なぐるみ)城址は段丘を下り、利根川

に沿って走る国道17号(三国街道)を北上し、利根川に架かる橋を渡った先の小高い丘の上にある。やはり、沼田盆地

を南側に見下ろす眺めの良い天然の要害だ。武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺の変で自刃した後、この城を巡って

真田氏は北条氏・徳川氏連合に対峙した(豊臣秀吉のバックアップで)が、この城を巡る北条氏との争いが発端となり、

秀吉は小田原攻めで北条氏を滅ぼした。この辺り一帯が呉桃郡(くるみのこおり)と呼ばれており(平安時代の書物に

伝えられているという)、「ナグルミ」(名胡桃)を城名として真田昌幸が築いたこの城は安堵された。目まぐるしい

戦国大名の攻防の果てに、沼田城に城主信之が領内経営の本拠地を移した後、名胡桃城は廃城となりわずか10年の

命脈を終えたという。現在は、郭(くるわ)や堀切の址を残すのみだ。




徳富蘇峰書による石碑が建てられている名胡桃城址、群馬県みなかみ町による発掘調査に基づき、城跡は整備され
訪れる人も多い。城址案内所にも資料(案内パンフなど)が置かれ、歴史遺産を守り公開しようとする、自治体の取
り組み姿勢がしっかりと感じられる。



深い堀切に囲まれた台地の上にある二郭の虎口に架かる橋、四つの郭(くるわ)をつなぐ橋で守りを固める構造は、
郭周りの柵や櫓(やぐら)と合わせて、真田昌幸ならではの城造りだったのだろう。秀吉の大阪城築城にも真田氏は
深く係わったというし、大阪夏の陣で出城の「真田丸」を築き、徳川勢を散々に撃退した信繁(幸村)の活躍も、こ
の様な城造りのノウハウが生かされたに違いない。



さて、次の史跡「岩櫃城址」へは、みなかみ町を南下し中之条町を抜け、吾妻街道(吾妻川とJR吾妻線に沿って西方

へ遡る)に入り、その先の東吾妻町の山間麓に観光案内所(平沢登山口)があった。案内人に聞いてみると、急坂だが

歩いて15分程の山の中腹に「岩櫃城本丸跡」があるとのこと、その先岩櫃山山頂へは登山支度でないと登れないと

も。普通のウォーキング・シューズだったが連れと一緒に登ってみた。山道は落葉と粘土質の土で滑るところもあっ

たが、慎重に登って行ったら中腹の平らで開けた場所に城址があった。登山姿で登ってくる人々もちらほらだった。

「岩櫃山・いわびつやま」の名前由来については、地元東吾妻町のPR冊子「岩櫃物語」に載っていたが、鎌倉時代の

将軍・源頼朝の命名と伝えられているとのこと。狩りにやって来た頼朝がこの山(当時は高嶺山と呼ばれていた)を見

て、「岩で作ったお櫃(炊いたご飯の入れ物)のようじゃ!」と言い、「これから岩櫃山というがよかろう」と宣言し、

それ以降その名で呼ばれるようになったと伝わっている。私自身も、「なくるみ」といい、「いわびつ」と言い、不

思議な名前だなぁ!?と思っていたので、その謎が解けたのも真田道を辿ったおかげだと嬉しい気持ちになった。




典型的な「山城」タイプの岩櫃城だが、こんな高い山の中腹に城を築くのはさぞ大変だったろうと推察した。平野に
天守閣を擁した城を作り、城の周囲に家来を住まわせ、商人・職人などの町と農民の村を一帯に配する平城と違い、
江戸時代以前の城はほとんどが川や崖に守られた山城だったのであり、それを攻めたり守ったり、取ったり取られた
りの繰り返しが豪族や大名たちの仕事だったわけで、夏草が生い茂り深い木立に囲まれた城址を見て、「つわもの
たちの夢の跡」という言葉が蘇って来た。




地元観光協会による案内板、しっかりとした出来具合です。私の親しんでいる瑞牆山(みずがきやま 山梨県)も、
金峰山(きんぷざん 長野県)も、頂上一帯はゴツゴツとした険しい岩山(御影石)で、この岩櫃山も同様に険しい岩山
の頂上を持っている。火山隆起による生成が同じ時期なのかもしれない。そんなところにも親しみを感じた。




出かける前に建てた計画では、沼田城址 →名胡桃城址 →岩櫃城址 と真田道を辿り、急峻の上にある丸岩城祉はパス

して、妻恋村 →鳥居峠越え →上田の砥石城 →真田歴史館 を一日の日程に組んだのだが、昼蕎麦を食べた後それは

到底無理と判断し、上田周辺の探索はまた別の機会にすることにした。

NHKの大河ドラマ「真田丸」(1916年1~12月放映)が契機となり、真田氏ゆかりの地を再発見し紹介しようという

機運が各市町村で高まり、歴史遺跡や遺産の発掘調査も進んだ結果、史跡の整備(城址公園や案内所・駐車場など)も

充実しているのを今回とても感じた。加えて、案内冊子やパンフレットも各種備えられていて、史跡を訪れる人びと

の好奇心や知識欲に応えているのも良いと思った。「真田」というのは確かに一大歴史ブランドに相違ないが、こう

して真田道を辿ってゆかりの地を巡ってみると、波乱に満ちたつわものたちの生き様に触れる思いがして、なかなか

こころ満たされるものがあった。




吾妻渓谷と八ッ場ダム近くにある「もみじ茶屋」で食べた昼食の手打ちざる蕎麦、やや緑がかったお蕎麦が美味し
かった。古民家まんま(きれいに改装してない!)の座敷で、おばさん達が打ってくれた蕎麦がなかなかいい味だった。
ギャラリーを兼ねたお部屋では、水彩画画家の個展も開かれていた。部屋の隅には、昭和年代の古い雑誌(少年マガ
ジンとか女性週刊誌など)がそのまま雑然と積み上げられていたのもびっくり!




「岩櫃物語」(左)は、東吾妻町職員ミーティング制作の劇画(コミック)調のストーリー仕立て(A418頁)、岩櫃城の
歴史がとても解りやすくて良い。「真田街道ガイド」(右)は、上田市観光課の真田街道推進機構事務局制作、真田氏
ゆかりの地18市町村(上田市・沼田市・九度山町など)を串差しした本格的な紹介冊子(縦長B5変形52頁)だ。帰って
からゆっくり読んだら、とても面白かった。




一日目の宿は野辺山のグレースホテルだったので、吾妻街道から嬬恋村手前で軽井沢方向に南下し、国道18号 →

関越道 →中部横断道で八千穂まで →佐久甲州街道で野辺山着となった。ホテルの食事は(和牛のステーキコース)相

変わらず美味しかったし、城址歩きや山登りで良く体を動かしたこともあり、入浴後ぐっすりと寝てしまった。翌

朝も快晴の晴れ日、部屋から眺められる八ヶ岳の姿もくっきりと見え、これも嬉しいご馳走だった。




手持ちスマホでの撮影画像、何も加工してないが最近のスマホは結構良く撮れる。霧や雲に覆われて姿を見せない
ことが多い八ヶ岳だが、この日はくっきりと姿を現してくれた。



<この項続く>