2022年6月2日木曜日

真田道を辿り、城址を巡り歩く(上.信.甲州の初夏旅その1)




「完本真田太平記」(池波正太郎作 講談社刊)の第18巻に掲載された図表より。信州上田城と上州沼田城をつなぐ
真田道(さなだみち)は、戦国・安土桃山・江戸時代に活躍した真田一族のゆかりの地であり、今も数々の歴史
遺産が残っていて、訪れる人々を魅了している。 All Photo by Jovial TAKA



生まれも育ちも信州(長野県長野市)の私自身にとって、「真田」(真田氏と真田一族が活躍したゆかりの土地)は、

幼い頃から親しんできた゛ビック・ブランド゛であり、今でも何かと興味を掻きたてる存在でもある。3年程前に

このブログでも、「池波正太郎『真田太平記』を全編読み返してみた」を2回に渡って掲載したが、その折、何時か

「真田道」をたどる旅をしてみたいという思いを綴っている。
『https://jovialtaka.blogspot.com/2019/03/1_15.html』

今回の旅(連れとのドライブ)は、その時の思いを実現すべく、関越道で上州沼田から入り「真田道をたどる」、

それに加えて「金峰山川でイワナ釣り」・「蓼科の親湯温泉と縄文遺跡を訪れる」というロングドライブ・2泊3日

の日程となった。帰りは中央道(諏訪南→調布)を利用した全程走行距離650㎞の旅、上州(群馬県)・信州(長野県)・

甲州(山梨県)を駆け巡った盛り沢山の初夏旅だった。




沼田城は、この地を巡って越後北条氏・甲斐武田氏・小田原北条氏による争奪戦の後、真田信幸(信之)が初代城主と
して築城した(1590 天正18年)が、5代信利で改易となり真田氏91年の治世を終えた。現在は天守閣・本丸御殿
など残っておらず、再建された鐘楼が本丸跡に残るのみで、城址公園として整備され公開されている。




城址公園内の観光案内所には、城跡発掘調査の資料や真田家にまつわる歴史資料(鎧兜など)が展示されている。真田
信之公装着の具足(萌黄絲毛引威二枚銅具足)も展示されていた。なかなかの迫力です。



沼田城址(沼田市)は、広い沼田盆地を見下ろす東側段丘の上にあったが、名胡桃(なぐるみ)城址は段丘を下り、利根川

に沿って走る国道17号(三国街道)を北上し、利根川に架かる橋を渡った先の小高い丘の上にある。やはり、沼田盆地

を南側に見下ろす眺めの良い天然の要害だ。武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺の変で自刃した後、この城を巡って

真田氏は北条氏・徳川氏連合に対峙した(豊臣秀吉のバックアップで)が、この城を巡る北条氏との争いが発端となり、

秀吉は小田原攻めで北条氏を滅ぼした。この辺り一帯が呉桃郡(くるみのこおり)と呼ばれており(平安時代の書物に

伝えられているという)、「ナグルミ」(名胡桃)を城名として真田昌幸が築いたこの城は安堵された。目まぐるしい

戦国大名の攻防の果てに、沼田城に城主信之が領内経営の本拠地を移した後、名胡桃城は廃城となりわずか10年の

命脈を終えたという。現在は、郭(くるわ)や堀切の址を残すのみだ。




徳富蘇峰書による石碑が建てられている名胡桃城址、群馬県みなかみ町による発掘調査に基づき、城跡は整備され
訪れる人も多い。城址案内所にも資料(案内パンフなど)が置かれ、歴史遺産を守り公開しようとする、自治体の取
り組み姿勢がしっかりと感じられる。



深い堀切に囲まれた台地の上にある二郭の虎口に架かる橋、四つの郭(くるわ)をつなぐ橋で守りを固める構造は、
郭周りの柵や櫓(やぐら)と合わせて、真田昌幸ならではの城造りだったのだろう。秀吉の大阪城築城にも真田氏は
深く係わったというし、大阪夏の陣で出城の「真田丸」を築き、徳川勢を散々に撃退した信繁(幸村)の活躍も、こ
の様な城造りのノウハウが生かされたに違いない。



さて、次の史跡「岩櫃城址」へは、みなかみ町を南下し中之条町を抜け、吾妻街道(吾妻川とJR吾妻線に沿って西方

へ遡る)に入り、その先の東吾妻町の山間麓に観光案内所(平沢登山口)があった。案内人に聞いてみると、急坂だが

歩いて15分程の山の中腹に「岩櫃城本丸跡」があるとのこと、その先岩櫃山山頂へは登山支度でないと登れないと

も。普通のウォーキング・シューズだったが連れと一緒に登ってみた。山道は落葉と粘土質の土で滑るところもあっ

たが、慎重に登って行ったら中腹の平らで開けた場所に城址があった。登山姿で登ってくる人々もちらほらだった。

「岩櫃山・いわびつやま」の名前由来については、地元東吾妻町のPR冊子「岩櫃物語」に載っていたが、鎌倉時代の

将軍・源頼朝の命名と伝えられているとのこと。狩りにやって来た頼朝がこの山(当時は高嶺山と呼ばれていた)を見

て、「岩で作ったお櫃(炊いたご飯の入れ物)のようじゃ!」と言い、「これから岩櫃山というがよかろう」と宣言し、

それ以降その名で呼ばれるようになったと伝わっている。私自身も、「なくるみ」といい、「いわびつ」と言い、不

思議な名前だなぁ!?と思っていたので、その謎が解けたのも真田道を辿ったおかげだと嬉しい気持ちになった。




典型的な「山城」タイプの岩櫃城だが、こんな高い山の中腹に城を築くのはさぞ大変だったろうと推察した。平野に
天守閣を擁した城を作り、城の周囲に家来を住まわせ、商人・職人などの町と農民の村を一帯に配する平城と違い、
江戸時代以前の城はほとんどが川や崖に守られた山城だったのであり、それを攻めたり守ったり、取ったり取られた
りの繰り返しが豪族や大名たちの仕事だったわけで、夏草が生い茂り深い木立に囲まれた城址を見て、「つわもの
たちの夢の跡」という言葉が蘇って来た。




地元観光協会による案内板、しっかりとした出来具合です。私の親しんでいる瑞牆山(みずがきやま 山梨県)も、
金峰山(きんぷざん 長野県)も、頂上一帯はゴツゴツとした険しい岩山(御影石)で、この岩櫃山も同様に険しい岩山
の頂上を持っている。火山隆起による生成が同じ時期なのかもしれない。そんなところにも親しみを感じた。




出かける前に建てた計画では、沼田城址 →名胡桃城址 →岩櫃城址 と真田道を辿り、急峻の上にある丸岩城祉はパス

して、妻恋村 →鳥居峠越え →上田の砥石城 →真田歴史館 を一日の日程に組んだのだが、昼蕎麦を食べた後それは

到底無理と判断し、上田周辺の探索はまた別の機会にすることにした。

NHKの大河ドラマ「真田丸」(1916年1~12月放映)が契機となり、真田氏ゆかりの地を再発見し紹介しようという

機運が各市町村で高まり、歴史遺跡や遺産の発掘調査も進んだ結果、史跡の整備(城址公園や案内所・駐車場など)も

充実しているのを今回とても感じた。加えて、案内冊子やパンフレットも各種備えられていて、史跡を訪れる人びと

の好奇心や知識欲に応えているのも良いと思った。「真田」というのは確かに一大歴史ブランドに相違ないが、こう

して真田道を辿ってゆかりの地を巡ってみると、波乱に満ちたつわものたちの生き様に触れる思いがして、なかなか

こころ満たされるものがあった。




吾妻渓谷と八ッ場ダム近くにある「もみじ茶屋」で食べた昼食の手打ちざる蕎麦、やや緑がかったお蕎麦が美味し
かった。古民家まんま(きれいに改装してない!)の座敷で、おばさん達が打ってくれた蕎麦がなかなかいい味だった。
ギャラリーを兼ねたお部屋では、水彩画画家の個展も開かれていた。部屋の隅には、昭和年代の古い雑誌(少年マガ
ジンとか女性週刊誌など)がそのまま雑然と積み上げられていたのもびっくり!




「岩櫃物語」(左)は、東吾妻町職員ミーティング制作の劇画(コミック)調のストーリー仕立て(A418頁)、岩櫃城の
歴史がとても解りやすくて良い。「真田街道ガイド」(右)は、上田市観光課の真田街道推進機構事務局制作、真田氏
ゆかりの地18市町村(上田市・沼田市・九度山町など)を串差しした本格的な紹介冊子(縦長B5変形52頁)だ。帰って
からゆっくり読んだら、とても面白かった。




一日目の宿は野辺山のグレースホテルだったので、吾妻街道から嬬恋村手前で軽井沢方向に南下し、国道18号 →

関越道 →中部横断道で八千穂まで →佐久甲州街道で野辺山着となった。ホテルの食事は(和牛のステーキコース)相

変わらず美味しかったし、城址歩きや山登りで良く体を動かしたこともあり、入浴後ぐっすりと寝てしまった。翌

朝も快晴の晴れ日、部屋から眺められる八ヶ岳の姿もくっきりと見え、これも嬉しいご馳走だった。




手持ちスマホでの撮影画像、何も加工してないが最近のスマホは結構良く撮れる。霧や雲に覆われて姿を見せない
ことが多い八ヶ岳だが、この日はくっきりと姿を現してくれた。



<この項続く>



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