第3回 Salvatore Adamo「Sans Toi Ma Mie」その1. フレンチ・ポップスの誕生

 

1963年発売のアダモのEPレコード・カバーデザイン(4曲収録オランダ版)

https://youtu.be/xS2cHDko2wM?si=fkvpMMMmCdfhb7NU

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1950年代後半から1960年代にかけては、世界的な音楽ムーヴメントの新しい動向が広がりを見せた。その動向は音楽のみならず、映画や演劇・文学・美術・ファッションなど文化全体に及んで行った。

二つの大戦を経て、ようやく戦後の経済も復興し、人々の暮らしにもゆとりが出てきたと言う事なのだろう。フランス映画における「ヌーベル・バーグ」は活気に満ちていたし、「ヌーボー・ロマン」の文学運動も前衛的な小説群を生み出した。

音楽においても、ブラジル・リオデジャネイロの若者たちは、「BOSSA NOVA(新しい傾向)」と呼ばれる新しい歌を生み出した。それは、従来の歌 ”サンバ・カンソン” に、ジャズ+サンバ+テンションコードをミックスした、今までにない洒落た音楽だった。

片やアメリカ合衆国では、「オールデイズ」または「シックスティーズ」と呼ばれるPOP MUSIC が若者のハートをつかんでいた。フォークソング(フォークロック)と共に、E.プレスリーに代表される「ロックンロール」、ベンチャーズのエレキ・サウンド、ここに「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」も加わり、百花繚乱と言うか、とても多様性に満ちた音楽が人々から愛された。

もちろん、イギリスにおける「ザ・ビートルズ」のデビュー(1963年 Love Me Do)から世界公演への広がりとバンド解散(1970年)までのムーブメントも、世界中を熱狂させた。

イタリアでは、サンレモ音楽祭を中心とした「イタリアン・カンツォーネ」が活況を見せていた時代だった。

日本の1960年代は”何でもあり” だった。世界中から音楽がどっと入って来て、アメリカの「オールデイズ」は日本語歌詞で唄われ、ロカビリー(1958年第1回開催のウェスタン・カーニバル)ブームから「グループ・サウンズ」が生まれ、カンツォーネやシャンソンもブームとなった。その時代の多くのシャンソンは、日本の歌手の日本語バージョンで唄われた。

また、それまでの「演歌」に代わって、フォーク・ロックが若者のハートを揺さぶり、その後70年代の「ニューミュージック」の台頭を準備した。


あの時代(1950年代後半から1960年代にかけて)のフレンチ・ミュージックの輝きには、私自身も大いに魅了された。と言うのも、ヨーロッパ中から素晴らしい歌手と音楽がフランス(パリ)に集まっていたのだ。

イタリア・シチリア生まれ、ベルギー育ちのアダモは、「Sans Toi Ma Mie」・「Tombe La Neige」・「En  Blue Jeans et Blouson d’Cuir」などのヒット曲を飛ばし、ブルガリア生まれ、パリ育ちのシルビー・バルタンは、ロック・ジャズサウンドの ”イエ・イエ”で、「アイドルを探せ - Le Plus belle pour Aller Dancer」を世界に発信していた。

アルジェリア生まれのエンリコ・マシアス(第1回 Solenzaraに収録)は、「Solenzara」・「Adieu Mon Pay」・「L’amour C'est Pour Rien」などで、異国情緒に満ちたヒット曲を続け、グルジア生まれの父とアルメニア生まれの母の血を引くシャルル・アズナブールは、「La Bohème」「Zezebel」「Mourir D'aimer」などの曲でお馴染みだ。

パリっ子のフランス・ギャル、フランソワーズ・アルディ、ギリシャ出身のビッキー・レアンドロス、エジプト出身のダリダ. . .多くの才能あるミュージシャンたちは、自身で歌詞を作り、メロディを作曲し、映画にも出演し、他の歌手にも曲を提供し、自身のアイデンティに満ちた多様性のある音楽活動を展開していたのだ。

この時代に青春を過ごした人々は、日本のみならず世界の愛唱歌を口ずさみ、フレンチ・ポップスの黄金時代を謳歌したのだった。アダモの「サントワ・マミー」は、その先駆けとなる一曲と言えるだろう。


〈 この項続く〉


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