2019年8月30日金曜日

MY和竿を巡る渓流釣りの記憶(その2.俊之作と大物岩魚)




渓流の岩魚・山女魚釣り支度、最近の餌釣り(川虫・ブドウ虫)用の目印はやや大きめの物を使って視認性を良くして
いる。要するに遠方の小さな目印(色糸や蛍光矢印など)が、年のせいで良く見えなくなったわけ!? 毛針は、浮き下に
タイプ違いの三つをつけて、フロータイプとシンクタイプに別けた私独自の仕掛けだ。餌入れ桐箱は、最近改良して
仕立て直したもの、ストラップ付で肩から胸につるすようにした。木製ランディング・ネットはリバーピークス社製。




その当時(昭和50年代ー1970年代後半から1980年代前半)、関東・甲信越の渓流にしばしば出かけていた私は、単独

行もあったし、ルアーやフライ釣りを始めたばかりの釣り仲間と一緒に出掛けることも何度かあった。信州の高原

育ちの私が専ら案内役で、釣れそうなポイントを教えてあげる、という感じだった。戸隠連山に源流を発する裾花川

にも良く出かけた。東京からそれぞれの愛車を運転して、高速道路と山道を駆け巡っての釣りだからやっぱり元気

だったとしか言いようがない。鬼無里の上流のとあるポイント(カーブする渕の流れだし)で、「そこへルアーを放っ

たら!」と指さして彼に教えたら、ルアー(迷彩色のフラットフィッシュ)を着水させ引いた瞬間に20数㎝のイワナが掛

かってきたのには驚いた。その頃は魚影が濃かったこともあるが、ルアー操っていた本人も驚愕していたのを今でも

鮮やかに思い出す。


この俊行作の和竿で一番思い出に残っているのは、同じ裾花川の第一ダム上流、両側田圃の開けた川筋で43㎝の

大岩魚を釣り上げたことだ。この竿を使い始めて手に慣れて来た1978年の夏の暑さが一服した秋の初めのことだっ

た。源流域の巨大岩がゴロゴロある様な川相と違い、如何にものどかな景色が広がる上流域だったので、私自身も

びっくりしてしまった。大きくカーブする渕から流れ出したザラ瀬のポイントだったので、こんな場所に大岩魚が

いること自体が信じられなかった。北信濃の義父宅に戻り、釣り上げた岩魚を見せたら「えらいデカいのを釣っ

てきたね~!」と宣い、塩焼きにして家族みんなでお腹に収めてしまった。その頃は、パソコンやインターネット

などなく、写真に収めて投稿するような環境もなかったので、画像など何も残っていないのだ。しかし、私の記憶

には今もしっかりと残っている(釣り人の話はほら吹き交じりで、魚のサイズもやたら大きくなる、とは言うが...)。


河川各地の漁業組合による魚の放流や釣り人対象の遊漁料の徴収もまだ実施地区が少なかった、ある意味では幸せ

な時代だったかも知れない。災害対策の河川護岸工事や堰堤工事などが始まり、1972年に始まった列島改造の怒濤の

様な勢いにより、コンクリートの箱川と化した全国の河川環境も激変ゆく時代だった。






先進のF.F駆動と5ドアハッチバック、フェルインジェクション・システム搭載のワーゲン・ゴルフがこの頃の愛車、
昨今流行のS.U.V(Sport Utility Vehicle)の先駆車と言えよう。釣り道具一式を積み込んで関東・甲信越の渓流を快適に
駆け巡った。この愛車と過ごした時間には、楽しい想い出が沢山ある。画像はカーディーラーのHPより



「俊行作」の山女魚竿は、その当時ではやや柔らかく感じられた。それは、併せて使っていた「竿かづ」の山女魚竿

が゛剛腕゛というか堅調子で私には好ましかったからかもしれない。まだ30代初めで腕力もあったからかと思う。

「竿かづ」を専ら使い、「俊行作」は家に置いてゆくことが多くなり、そのまま再開まで封印されていた。しかし、

今この竿を再び使ってみて、とても手になじんでいるのが不思議な気持ちだ。昨今主流のグラスファイバー・ロッド

に較べればやや重いが、竹素材を伝わってくる魚信と掛けた時のしなりは、我が腕や手指の延長の様でとても好ま

しいのだ。


さて、ネットの岩魚大物の画像を探していたら、こんな画像が見つかった。私の記憶の中にある岩魚を、今は他人

様の画像をお借りして再現するしか手はないのだが、出典を明記して載せさせていただこうと思う。




「つり人」2016年10月号 「ブナに守られたべっぴん尺イワナをてんからで」より。私が釣り上げた岩魚は、ダム
から遡上してきたためか斑点の薄いシルバー岩魚だったが。



<この項つづく>


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