2013年3月8日金曜日

エル・グレコ展:異形の宗教画家



上野の東京都美術館で開催中の「エル・グレコ展」を覗いてみた。私自身は永らく、このスペイン宗教画の巨匠に馴染みがなく、どちらかと言えばイタリア(ヴェネチアやフィレンツェ)のルネッサンス絵画に興味があったので、この巨匠についてはよく知らないできていた。スペイン絵画では、もう一人のロマン派の巨匠、後年(18世紀後半~19世紀始め)のフランシス・デ・ゴヤは好きなので、彼の作品をスペイン絵画展で見たり、堀田善衛の小説『ゴヤ』で親しんだりしては来ている。

改装なったこの東京都美術館では、昨年の夏に開催された「マウリッツハイス美術館展」で、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』を見て、とても楽しかった。今回の「エル・グレコ展」もかなり大掛かりな美術展であり、この業界のライバル2社(NHKと朝日新聞社)がタッグを組んで、世界中の美術館や教会・聖堂・個人から、貴重な作品50点余を集めてきた。出品リストを見ると、入念な準備を経て開催された「エル・グレコ展」であることが理解できる。

広い美術館の中をゆっくりと歩きながら、1点づつ作品を見て廻った。主催者側の組み立てたテーマは、必ずしも年代順ではないのだが、それらのテーマに沿って順路をたどりながら、私はある想いにずっと捕らわれていた。その想いは、美術館を出てからも、家に戻ってからも、また今もずっと続いている。
それは、「なぜ、あのような、細長く引き伸ばされた人体と曲がりくねった姿態を、彼は描き続けたのだろうか?」、というものだ。

[左]エル・グレコ最晩年(死の1年前の1613 年)の超縦長大作:『無原罪のお宿り』、聖堂の祭壇画として描かれた。
「主題は、聖母マリアが原罪を免れて生まれたというカトリックの教義を表す。引き伸ばされ地上の重力から解放された人体やその上昇するエネルギー、天上の光のもと輝く神秘的な色彩の乱舞は、エル・グレコ芸術の頂点と言える。」ー公式HP解説より



私も久し振りに西洋美術の歴史を振り返ってみたが、エル・グレコは「マニエリスム」(イタリア語の゛マニエラ゛が語源、ある傾向のパターン化された様式美を示す。後年の蔑称゛マンネリズム゛の語源でもある。)の時代に属する。イタリア・ルネッサンス ー マニエリスム ー バロック ー ロココ、と続く時代は、西欧社会では君主制の時代だった(15世紀~17世紀)。各国が海洋貿易を元に興亡を繰り返し、ヴェネツィア・スペイン・オランダ・イギリス帝国など、隆盛がめまぐるしく変わった。一方、ドイツで起こった宗教改革(1517年)以降、全欧はカソリックとプロテスタントの戦い、宗教改革と反宗教改革の勢力同士の戦争のルツボと化した。

スペインの黄金時代は、1492年の新大陸発見から1681年のポルトガル独立までとされているが、スペインの歴史自体はかなり複雑で、生半可の知識ではとて理解できないのでここでは割愛する。
エル・グレコが、生まれ故郷のクレタ島(現ギリシャ、当時はヴェネツィア植民地)から、ヴェネツィア・ローマでの絵画技術の習得を経て、スペインの古都トレドにやってきたのは35歳の頃(1576年)、この地で亡くなる(1614年)までの後半生を彼はここに工房を構えて、教会や修道院の求めに応じて、数多くの宗教画を制作したという。
[右]トレドに移る前に描かれたと思う「悔悛するマグダラのマリア」(1576年頃)、聖書を題材として当時の画家達が好んで描いたマリアのモチーフ。私には、ギリシャ美人に見える。イタリアのルネッサンス・芸術活動がピークを経て勢いを失いつつあった時代だが、絵画手法はルネッサンス、人物美はヘレニズム文化の理想像、環境因子と個人因子の素敵な結合の産物。まだ、マニエリスムの傾向は感じられない。

片や、共和制を敷いたヴェネツィア共和国を代表する、盛期ルネッサンスの画家:ティツィアーノが描いた『悔悛するマグダラのマリア』(1533年頃、ピッティ宮殿蔵)。私が見たのは確か、何年か前の「ヴェネツィア美術展」(西洋美術館?)での体験だったが、聖書を題材にしながら、圧倒的に人間寄りの女性像だった。乳房と腕のふくよかなふくらみ、長い髪を身にまといながら、天を見つめて涙を流す姿に、強い衝撃を受けた記憶が蘇ってくる。












自由と解放の後には、その精神の衰退と手法だけが残る様式美がやってくる。あるいは、反動精神の巻き返しが始まり、締め付けと束縛の時期が続く。人間のくり返してきた歴史の例はスペインでも顕著だった。
スペインの黄金時代(特にフェリペ2世)は、主として海外植民地からの富の収奪と奴隷労働によって成り立つものであったし、全スペイン領で反宗教改革の熱狂が支配し、異端裁判で多くのプロテスタントやユダヤ人が弾圧されたと言う。イギリス国教会設立(1536年)も、反動のイエズス会設立(1534年)もこの世紀だ。
そんな超保守的カトリック勢力の中心たる教会や聖堂・聖職者たちをパトロンとして、注文主のために絵画を描き、弟子達と工房を維持していく画家の日々は如何なるものだったのか?

今回誘ってくれて一緒に絵を見て廻った絵友のHIさんは、TVの絵画番組で得た情報として、「グレコの祭壇画は、聖堂で膝まづいて仰ぎ見るとちょうどいいように、縦長の10頭身以上のプロポーションになっている。」と紹介してくれた。前述の『無原罪のお宿り』の前で、そうして作品を見上げてみたら、なんとなくそんな気もしたが、やはり異形であることには変わりないと思う。

[右]『第五の封印』 1608~1614年、メトロポリタン美術館蔵
鼻高で彫りの深い顔立ち、引き伸ばされた人体、曲がりくねった姿態、やや暗い原色(赤・青・黄・緑など)の衣装に、白いハイライトで襞が描かれる人物像は、トレドで制作されたグレコの宗教画に共通のパターンだ。このような作品が数多く描かれた背景には、注文主の意向が多く反映されていたに違いない。当時の支配階級に絶大な人気を得ていたのも、彼の巧みな絵画的営業センスだったのかもしれない。時代の環境因子のなせる業だったのだろうか?



今回のエル・グレコ展では、マニエリスムの宗教画以外にも、彼が描いた多くの肖像画が出品されていたが、宗教的テーマの聖人達を題材としたものと違い、実存する人物と向き合った息吹が感じられるような作品が見られて良かった。その大半は古典的手法で描かれたものだったが、画家の優れた絵画技量を見せてくれるものであることにはまちがいなかった。



今回の展覧会には、『白貂の毛皮をまとう貴婦人』のタイトルで出品されていたが、実は、トレドに移り住んでから死ぬまで一緒に同棲した愛人・ヘロニマの肖像画(1570年代後半)だ。ヘロニマとは息子を一人もうけたが、一説には正妻がいたので彼女とは結婚できなかったという。
しかし、貂(テン)の毛皮の質感といい、涼やかな瞳と鼻筋、ふっくらとした唇と血の通った頬、長い眉と秀でた額の美人像といい、肖像画を描いても彼は超一級の巨匠であったと思う。
私自身は、人と向き合って肖像を描くエル・グレコのほうが好きだ。聖人や天上人を、想像のプロポーションで描く、異形の画家エル・グレコには、如何にそれがあるグループの人々に支持されても、余り魅力を感じないのだ。スペインの教会の方たち、ごめんなさい。

エル・グレコ展の公式ホームページは以下のとおり。
http://www.el-greco.jp/index.html

なお、ここに載せた作品画像は、公式HPとグーグルの Wikipedia からのものであることをお断りしておきます。

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