第2回 Edith Piaf「La Vie en Rose」その4.エディット・ピアフと3人の男たち

 □フランスで最も愛されている歌手の一人エディット・ピアフ(1915-1963)の波乱万丈の生涯は、彼女が歌った数々のシャンソンの名曲と共に、多くの毀誉褒貶(きよほうへん)に満ちた逸話が残されています。今回は彼女が愛した(愛された)男たちと、その恋愛関係が生んだ名曲について取り上げてみます。



映画「Étoile sans Lumière1946 監督Marcel Bristène の中で「C’est Merveilleux」を歌いながら、ドライブするモンタンとピアフ...YouTube動画でその熱々ぶりが見られる。第二次世界大戦終戦直後の作品なので画像はやや粗いですが。下のタイトルを指定右クリックすると動画を見られます。

https://youtu.be/csrg-RRtajE


イヴ・モンタンIves Montand 1921-1991

□イタリア出身・フランスで活躍したシャンソン歌手・俳優、妻は女優のシモーヌ・シニョレ(Simone Signoret 1921-1985、ドイツ生まれ・1959年映画「年上の女」でアカデミーとカンヌ国際映画祭の両主演女優賞を受賞)

 

1944年、ピアフに歌の才能を見出され(23)歌手となる(前身は美容師)。ピアフは当時29歳、二人は相思相愛の中となり関係は数年間続いた。パリ解放後の自由謳歌とモンタンとの恋の喜びを込めて、ピアフは詩を書き曲も彼女が作った。この曲がLa Vie en Roseです。しかし、ピアフはSCAM(仏音楽著作権協会)に登録された作曲家ではなかったので、友人のピエール・ルイギィ(Pierre Luiguy)の名を借りて曲を登録した。曲の評判は悪くボツになっていた。

1945年、マリアンヌ・ミッシェル(Marianne Michel)が自身の経営するキャバレーでこの曲を歌い、ラジオでも流された。それを知ったピアフは翌年1946年に自ら後追い録音し、その後多くの歌手がカバーする名曲となった。「あなたとの生活は幸せ一杯!」とおしゃべりするように歌った曲ながら、彼女の秀でた歌唱力と語りかけるような歌詞内容が大ヒットし、ピアフの代表曲として知られている。

1946年、モンタンは映画『夜の門』でテーマ曲「枯葉Les Feuilles Mortes」を歌い、その歌唱力・表現力で実力派シンガー、そして俳優としての地位を築いて行った。

1951年、女優シモーヌ・シニョレと結婚(彼女は再婚)、二人の結婚生活はシニョレの死まで続いた。

1960年、映画『恋をしましょう』でマリリン・モンローと共演、モンタンの浮気が原因で妻シニョレが自殺未遂を起こした。シニョレは大腸がんのため198564歳で死去。

1987年、キャロル・アミエル(Carol Amiel 38歳年下)と再婚、1子ヴァレンチン(Valentin)を儲けた。1991年心臓発作で死去。

 

なお、ピアフが援助しミュージシャンとして大成して行った歌手にはモンタンの他に、シャルル・アズナブール(Chareles Aznavour)・ジルベール・ベコー(Gilbert Bécaud)・ジョルジュ・ムスタキ(Georges Moustaki)などがいる。


マルセル・セルダンMarcel Cerdan 1916-1949

 Versailles Night Club (N/Y)で寛ぐピアフとセルダン1948 Getty Image

 

□マルセル・セルダンは仏領アルジェリア生まれのフランス人プロボクサー、ヨーロッパ・ウェルター級チャンピオン、世界ミドル級チャンピオンを獲得し、戦績は1101064敗・内64勝はノックアウト勝ちという驚異的強さを誇るフランス最高のボクサーだった。1949年、飛行機事故のため死去。仇名は「モロッコの爆撃機」Le Bombardier Marocain

 

1947年、ピアフのアメリカ初公演の折2人は初めて会い、セルダンがピアフに「どうして悲し歌ばかり唄うの?」と聞くと、彼女は彼に「どうして殴るの?」と聞き返し、2人は互いに惹かれ合い大恋愛に発展したという。妻子あるセルダンに、彼女は2日毎にラブレターを送った。

Hymne à l’amour 愛の賛歌は、相思相愛の中だったが妻子あるセルダンとの恋愛に終止符を打つために、ピアフがセルダンの生前に作詞(作曲はマルグリット・モノー Marguerite Monnot)した曲、発表は1949年。胸の葛藤を抑えながら歌い上げるピアフの熱唱で、彼女の代表曲となった。

1848年、トニー・ゼール(Tony Zale鋼鉄の王者と呼ばれた)との世界ミドル級チャンピオン・タイトル戦で12KO勝ちを収める。

1949年、初タイトル防衛線でジェイク・ラモッタ(Jake LaMotta ブロンクスの牡牛と呼ばれた)と戦い、左肩を負傷して10TNO負け。

1949年、ラモッタとの再タイトル戦のため、ニューヨークに向かっていたセルダン搭乗のエールフランス航空機がサンタ・マリア島(ポルトガル領)で墜落し、乗組員全員48名と共にセルダンは死亡した。この訃報をピアフが聞いたのは、キャバレー・ベルサイユでの初演の日だった。けれどもこの夜も彼女はステージに立ち、セルダンのためにこの曲を捧げた。

その後、多くの歌手・ミユージシャンがこの曲をカバー。ある調査会社(フランスBVA研究所)によると、「フランス人が最も好きなフランス語ラブソング」にこの曲が選ばれている。日本では、越路吹雪バージョン・愛の賛歌(岩谷時子訳詞)がお馴染み、2024パリ・オリンピック開会式でのセリーヌ・ディオン(Seline Dion)の熱唱が記憶に新しい。


〈テオ・サラポ Théo Sarapo 本名Théophanis Lamboukas 1936-1970


ピアフの死1年前に撮られた、犬を連れて散歩する2人の画像Getty Image1963 ピアフの身長は142cmだったか30cm以上の差(175cm)だったかもしれない(公表データなし)。

□テオ・サラポは、ギリシャ系フランス人歌手・俳優(元美容師)、ピアフに才能を認められた歌手の一人で最後の男(Dernier Homme)だった。1962年・26歳で46歳のピアフと結婚し2人目の夫(20歳差)となり、結婚中は一緒に曲を録音しコンサートでも共演していた。2人の結婚生活はわずか1年だった。1970年交通事故で他界(34)

 

1962年、ピアフと共演して歌った「恋は何のために? À quoi ça sert l’amourの成功で歌手の地位を得る。

1970年、映画「ジュデックス Judex 監督Jeorges Franju 」に主演、俳優としても活躍した。

1963年、妻ピアフの死後(肝臓がん)、莫大な借金(700万フラン~日本円で135千万円)のある事が判明、その全てをサラポが引き継ぎ後年に渡って完済した。これだけでも凄いですね~!

1970年、サラポの死後、彼はパリのペール・ラシューズ墓地に葬られた。その墓には、ピアフの父 :ルイ・アルホンス・ガシオンとマダム・ランブーカス(ピアフ)、そしてテオ・サラポの銘が刻まれている。反対側に、17歳で一緒に暮らしたルイ・デュポンとの間にできた娘マルセル(2歳で病死)の名が刻まれている。



〈 追 記 〉イヴ・モンタンは身長185cm、マルセル・セルダンは身長169cm・体重72,5kg(ミドル級)、テオ・サラポは身長175cm、ピアフの愛した男たちは皆長身で筋肉質のガッシリタイプ... いわゆる「ガタイのいい男」が好みだったようですね!


Wikipedia : Edith Piaf / Ives Montand / Marcel Cerdan / Théo Sarapo

画像は、Getty Image などより


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