2015年10月31日土曜日

北信濃紅葉紀行【中編】城下町松代と中村神社



松代城址公園の城壁から東方の山々を展望する。 皆神山(みなかみやま:手前右)と尼厳山(あまかざりやま:左)、
後方に連なる1,000m以上の山々:奇妙山(きみょうざん:)・堀切山(ほりきりやま)・保基谷岳(ほきやだけ)が臨める。
公園のサクラは紅葉して秋の陽射しに輝いていた。青空には白い秋の雲、懐かしい景色だった。
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翌朝のどが渇いて目覚め、冷水を一口飲むとカーテンの間から朝焼けの空が見えた。南に開け三方を山々に囲まれ

た盆地では、朝日は東の山々から登り、夕日は西の山々に沈む。子供の頃から見慣れた風景だが、都会暮らしの

方が長くなってしまった私には、久し振りに見る光景だった。しばらくの間、飽きることもなく朝焼けの空を眺め

ていた。朝食は和食を選んでおいたが、味付けも量も申し分なく、美味しくいただけた。





 今日も快晴、青空に朝焼けの雲がたなびく。澄んだ空気の中で秋の雲がきれいだった(上)。
セットで用意された朝食は、バイキング・スタイルより食べやすかった(下)。つい食べ過ぎてしまうからね。


 本日の午前中は、長野市南方の城下町松代と千曲川周辺を散策する予定だった。まず、松代城址(旧海津城址)に

行った。私は小学生の頃遠足でここに来たことがあった。その当時は、崩れかかった城壁とだだっ広い空き地が

あっただけで、石垣をよじ登って遊んだ思い出がある。HIさんは自宅と学校が近くだったので、子供の頃の遊び場

だったとのこと。現在、城壁は修復されてすっかりきれいになり、堀と正門・裏門の建屋が備えられて、観光の

名所となっている。歴史遺産を整えて、多くの観光客を迎えているのはとてもいいなと感じた。春のサクラ(場内広場)

を見に来る人々も多いそうだ。



松代城址の正門の威容、石垣もきれいに作られている。秋の陽ざしの中、ドウダンツツジの紅葉が美しかった。



 ▢石垣の上に設けられた展望台から、西方の北アルプスを望む。すでに山々は冠雪し白く化粧していた。
これも懐かしい景色だった。


 その後、すぐ北側を流れる千曲川に行ってみた。畑の中を巡る農道をぶらぶら歩いて、堰堤を越えて河川敷に入った。

対岸の少し下流の川岸で、私はよく釣りをした。30代の頃だったが、知り合いが青木島町にいたので、朝早起き

してハヤやコイを千曲川で釣って楽しんだ思い出がある。HIさんが子供の頃には、堰堤にポプラの並木があって、

沢山の樹を連ねていたとのことだが、上信越自動車道の工事の時にその並木は切られてしまったか、または枯れて

しまったか、すでに面影はなかった。ただ2本のポプラの木はあったが、蔓延った雑木や常滑の木に囲まれて勢い

がなく、やがて枯れるのを待っているかのようだった。60年近い時の流れの中で、風景は変わってしまっていた。



千曲川の堰堤から妻女山(「川中島の戦い」の折、上杉謙信が陣を敷いたという山)と連なる山々を望む。
快晴の青空の下で、ススキの穂が風に揺れていた。のどかな田園風景。



収穫を待つばかりの山芋畑、枝葉を伸ばした後、柵と網を取り除いてから土を掘り起こして山芋を取り出す。
すぐ側の畑では、ショベルカーが砂分が多い土を掘り起こして山芋を収穫していた。 



農道に設置されたマンホールの鉄製蓋、サクラとリンゴをモチーフにしたデザインがこの地区らしくて面白かった。


次に回ったところは、車でもすぐ側にある旧松代藩文武学校、江戸時代には真田藩の城下町であった松代に残る

藩校跡だが、近年建物が整備され、開校当時(安政2年:1855年)の姿をそのまま伝えているという。見学料を

払って中に入ると、剣術所・柔道所・槍術所などと、西洋医学や西洋砲術を教えた文学所が残されており、畳を

敷き詰めた広い校内を巡って見ることが出来た。幕末の時代としては、かなり水準の高い藩校だったと案内には

記されていたが、江戸時代後期の思想家:佐久間像山を生んだ土地柄を忍ばせる歴史遺産と見受けられた。すぐ

隣には、HIさんの母校(松代小学校)が、文武学校の雰囲気に合わせた瀟洒なデザインの校舎で新しく建てられて

おり、歴史遺産を大切にする町の方針が感じられて好ましかった。来年のNHK大河ドラマは、『真田丸』だそうな。

この町も、また観光客で賑やかになるに違いない。



文武学校正面入口 、学舎玄関には真田六文銭の垂れ幕が掲げられている。



 ▢ついでに(と言っては失礼かも!)像山神社にもお参り。


この町の南外れに鎮守の森があり、その脇に小学校がある、ということで、小川に沿って住宅街を登っていくと、

大きな森が見つかった。そこは中村神社という由緒ある神社で、スギとケヤキの古木が茂る鬱蒼とした森だった。

その中に木造の社殿が佇んでいた。創建は延喜(901~923年)以前、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)・

素盞嗚命(すさのおのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)他。永禄年間に一度焼失し同12年(1569年)

に再建された(信濃INDEXより)とある。私達が神社の境内を歩き回っていると、落葉を掃いていた社守らしき

おじさんが、「今年の善光寺御開帳の折、本堂前に建てられた大回向柱に使った杉の大木の切り株があるから、

見てごらん。」と声をかけてくれた。早速社殿の奥にあるその切り株を見ると、直径1m近い切株だった。その

御神木は、高さ30m・推定樹齢200年という杉で、本堂前の回向柱(45㎝角・10m)と世尊院釈迦堂前の供養塔

(30㎝角・6m)の建立に寄進されたとのこと(信濃松代観光情報より)。善光寺と松代藩の縁故から、7年毎の御開帳

折には回向柱が寄進されて来たが、今年は中村神社の杉が使われ、その切り株を見られたのも、何かの巡り合わ

せだったように思う。



 鬱蒼とした鎮守の森の中に、静かにたたずむ中村神社の正面鳥居より社殿を臨む。



今年の善光寺御開帳の折、回向柱として切り出された杉古木の切り株。200年の年輪が刻まれていた。 


私の子供の頃の記憶にもある町、そしてHIさんの子供時代を過ごした町のあちらこちらを再び探索出来たので、

懐かしい思いは大いに満たされたのだった。この町を後にして、私は小学校同級生達との昼食会を予定している

会場まで車で送ってもらった。


旅の最後に寄った善光寺本堂前の回向柱、7年毎に新しく建てる度に、前回分は上部を切られて短くされる。
10本が建立されていたので、70年分の歴史が残されているのだ。願い事は、東方に立って柱に手を置き、
時計回りに4回柱を周ってから願いをかける習わしだ。
<この項つづく>

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